それはそれはもう随分と昔の事です。彼に会った時まだ私は結婚など出来る歳ではなかったし、彼はまだマフィアのボスになどなっていなかったから、本当に昔の話です。私達はまだ愛を語るには幼なすぎて、お互いを繋ぎ止める術も知りませんでした。それでも私は子供ながらに、けれど本当に、彼を愛していたのです。そして彼も、確かに私を愛してくれていた。好きだ、ってちょっと頬を赤くして言ってくれた事、今でも覚えています。彼が日本に滞在していた期間は決して長くなかったけれど、好きあっていた事は、確かです。そして彼が16歳になり、私もあと一ヶ月で同じ年になるという時、彼はイタリアに帰ることになりました。「立派なボスになったら、迎えに来るから」そう、言い残して。私は本当は寂しくて悲しくて、私も連れてって、だとか、行かないで、などと叫びたくなりましたが、これが永遠の別れなわけじゃないといい聞かせて、「信じて待ってる」と言いました。けれど今思えば、あれが間違いだったのです。あの、まるで映画のワーンシーンのような言葉のやりとりが、泣きたくなるほど愛しく思った彼にもっと近付かなかったのが、間違いだったのです。

 私は今から20年前、そこそこ大きい財閥の家に、一人娘として生まれました。俗にいう、お嬢様扱いをされて育ちました。けれどそんな暮らし、ちっとも楽しくなかった。そんな時、父の知り合いの息子が、ホームスティという形で私の家に来ることになりました。父はあまり気が進まなかったようですが、付き合いもあるため表面上は快く引き受けたのです。そして彼が家に来たその日から、私の人生は180度変わって全ての物が新鮮だったし、二人でベランダから見た見慣れたはずの庭に咲く花が、すごく輝いて見えたりしました。それくらい、彼の存在は大きかったのです。そして私、いえ私達は、恋に落ちました。彼は私に色々な事を話してくれました。将来マフィアのボスになる、そんな大切な秘密まで、話してくれました。その時彼は少し戸惑いがちだったけれど、私は彼が何者だろうと関係無かった。国籍が違っても、立場が違っても、そんな彼を好きになったのですから。 

 

 

 

そうしていつしか時は過ぎ、彼が帰ってしまってからも、私は辛い事があっても、悲しい事があっても、彼が言ってくれたあの言葉を思い出すだけで元気が出ました。…けれど、今回ばかりは、どうしようも、なかった。どうにも、できない。彼と別れてから一ヶ月たった頃、私は苗字が変わりました。でもそれは、決して私の意志ではなかった。一言で言えば、策略結婚。大きな財閥といえど、一度栄えたものは必ず衰える。それに加え最近財政が不安定になったため、将来を恐れた私の父が、私の家よりもっと大きい財閥の家の下に着くという形で事を納めようとしたのです。それは私を地獄へ叩き落とすには十分でした。昔から何不自由なく生きたようで、実際とても自由だなんて思えない人生だったけれど、恋愛は、結婚相手だけは自分で選べると、思っていたのに。結婚の話が出てから、何度も逃げようと思ったけれど、そんなこと叶いませんでした。警備が、厳しい。

一度嫁いでしまった私は、相手の家に住むことになったけれど、「財閥のお屋敷」とは名ばかりで、実際は牢のようでした。家の中にも監視カメラ。家の外にも、門にだってそれは設置されていて、部屋からだってろくに出られない。食事だって大勢に見張られて結婚相手と向かい合せで食べます。日に日に顔色が悪くなる私を心配して声をかけてきたけど、私知ってるのよ。あなたが、絶対私を逃がすな、って、こんなに警備を厳しくしてる事。興味がなかったからよく分からなかったけれど、私の結婚相手はどうしても私が必要らしい。何故か?理由なんて知りたくも無いわ。吐気がする。私は一度も結婚相手の名前を呼んだ事などありませんでした。それでも私は生きたけど、生きている気がしませんでした。あれから二年の月日が流れたけれど、私はあなたを忘れたことなどなかったのよ、ディーノ。こんなんじゃ連絡も取れないし、ディーノを裏切っているみたいで悲しくて悔しくて毎晩部屋で泣いた。裏切ってる。私に力が無いから、こんな事になったのです。会いたい。会いたい。ねぇ神様、世の中には色々な立場の人が居るので、お金に恵まれている私がこんな事言ったら罰当たりかもしれませんが、私は、普通の家庭に生まれて、自由に恋愛し、結婚して貧しすぎることなく、かといって豊かすぎなくてもいいから、本当に本当に愛する人と幸せな家庭を築ければ、それで良かったのです。地位も名誉もいりません。少しばかりの生活費と、最低限の住居、そして隣に彼が-ディーノが居てくれれば、他に何もいらなかった。世界で私が一番不幸だなんて思いません。けれどお願い。もう一度、ディーノに会わせて下さい。逃げられないならそれでいい。会って、せめて伝えさせて下さい。謝罪と、こんなことになってしまったけれど、貴方への愛は永遠に変わらない、と。

 

 

願った所で何も変わらない。けど、毎晩毎晩祈るように願いました。けれど、やはり私は神様に見放されたのかもしれません。最悪の、事態がおこったのです。

ある日結婚相手が、出張で三日ほど家をあける事になりました。また何時ものように結婚相手を送り出し、三日たったら迎える。そのはずだったのに、結婚相手は玄関を出る前になって私のほうに振り向いたと思うと、「そろそろ跡取りが必要だ。もういいだろう?」と囁いたのです。あっけにとられている私を見て照れているのだと勘違いした結婚相手は笑ってそのまま出ていきました。扉が閉まると同時に私は駆け出し部屋に入り、ドアを閉め座り込みました。…あの人は、私をなめてる。逃げられるはずないと、高い目線から私を見下しているのだ。この家からも、運命からも。思わず左手から指輪を抜き取り床に叩き付けた。それは軽い金属音を響かせて転がりました。

気が付くと私は部屋のドアを開け、玄関を開け、裏門を開けて、この家を飛び出していました。先程この家の主人が出掛けたため、普段の位置についていた警備員も正門の方に行っていたので私の家出は、成功したのです。少し走って路地に入ったところで、急に力が抜けて座り込みました。あっけない。あんなに長い間望んだ「逃げ出す事」が、こうも簡単に終わって、馬鹿らしくなって笑えてきました。裏門に警備員を配置しなかったのは、あの人が指示しなかったからでしょう。私は何も出来ないと、思ったからでしょう。そんな風に思われていた自分が、本当に情けなくて、惨めで、悔しくて。 

 

 

 

とりあえずいつまでもここには居られないと思い、立ち上がりました。これから、どうしよう。ふと右手を見ると、無意識に持ってきたバックが握られていて、中身を見れば嫌味な程お金の入った財布とケータイ、身分証明書などが入っていました。あの大きな家に、私の「必要最低限」はたったこれだけでした。お金が有ったのは助かったけれど、それも汚いお金に見えてきて、自傷気味に笑いました。自由になったけれど、今の私には彼へと続くパスポートがありませんでした。知り合いもいないし、こうして外に出てみると、まるで違う世界のようで、途方にくれます。何が財閥だ。何がお嬢様だ。いざ一人になると私は何もできないただの人間です。どうにかして早くこの町から出ようと駅に向かって歩いていると、雨が降ってきましたがそんなこと、どうでもよかった。雨宿りする事もなく、私は歩き続けました。灰色の、世界。色のない、世界を。「…?」ふいに名前を呼ばれたような気がして、顔をあげました。すると、少し先に人が立ってこっちを驚いたように見ています。…嘘だ。だって彼がこんなところに居るわけない。とうとう幻聴、幻覚まできちゃったのかな。「…だろ!?」その金髪の男の人は駆け寄ってきたかと思うと差していた傘の中に私を引き入れました。私の頭上に降り注いでいた雨が、止みました。どうして。

「…ディーノ、」

「こんなに濡れてどうしたんだよ!?」

「…」

「…っ!とりあえず行くぞ!」

そう言ったかと思うと私の手を引いて歩き出しました。どうして。これは夢?夢ならお願い覚めないで。けれど少し強く掴まれた腕が痛いから、夢じゃないのでしょう。

着いた所は駅前のホテルで、ディーノが今泊まっている所らしかった。廊下で会ったディーノの部下らしき人達は皆私を見て驚いているようだった。…そっか。もう、ボスなんだよね。そんなことを、冷静に思ってしまった。部屋に着くとディーノは私をベットに座らせてタオルで頭を拭いてくれる。しばらく沈黙が続いて、雨の音だけが響いた。

 

「…どうしたんだよ」

先に口を開いたのはディーノだった。私はうつ向いたまま。あれだけ毎晩祈ったのに、いざ叶うと言いたかった事が言えない。なんて、私はどれだけ情けないんでしょう。言わなければならない。謝罪と、こんなことになってしまったけれど、貴方への愛は永遠に変わらない、と。

 

 

 

「…ごめん、なさい」

声が、震えた。

ごめん。

ごめんなさいディーノ。

約束、破ってごめんなさい。

心配かけてごめんなさい。

「っ…ごめ、」

「分かったから。それ以上謝んな」

そう言って、頭を撫でてくれた。久しぶりの、ディーノの体温に、泣きそうになる。

けど、次の瞬間、本当に泣きたくなった。

 

「…結婚、したんだってな」

「!…どうして、」

「親父さんから、聞いた」

心臓が、大きな音をたてたのが分かった。

最低だ。

ディーノのこと、最低な形で傷付けた。

けど違うよディーノのせいじゃないよだから迎え、間に合わなくてごめんな、なんて謝らないで。

ディーノの事忘れたこと無かったよ毎晩貴方を思って泣いたよ。

私が愛してるのは、

 

 

 

 

 

ディーノ、貴方だけだ。

 

 

「…すき。」

「!」

すき。

だいすき。

ディーノが好きなの。

ディーノじゃなきゃダメなの。

ディーノだけが、すきだよ。

頭の中は真っ白なのに次から次へと言葉が口から止むことは無くて、

ついでに涙もぼたぼた落ちていって、

気持ちもどんどん溢れてきてしまって、

馬鹿みたいに「すき」を連発してしまった。

すきとしか言いようが無いのは確かだけど、沢山言ったら軽い言葉みたいになってしまうのに、ね。

それでもあたしが一回すきって言う度に頷いて抱き締めてくれたディーノが、

大好きよ。

 

「俺も、好き」

その言葉を聞いた瞬間、全てが一気に流れでてきて、私もディーノに抱きついて、泣きました。

 

 

それからしばらくたって、落ち着いてきたから、ディーノと別れてから起きた事全部を話しました。

時々泣けてきて咳き込むと背中を摩ってくれました。

 

 

 

「…

「っ…ぇ?」

「…俺と、逃げるか」

「…!」

「イタリアまで行けば、流石に追い掛けてこねぇだろ?」

だから、一緒に逃げよう、そう言って、昔みたく、ちょっと笑って軽いキスをくれた。

それから、辛い思いさせてごめん、って。

やっぱりあの時、無理矢理にでもの事、連れてけばよかったんだ、って。

…ありがとう。私はその言葉だけで、十分です。

 

「これ、ずっと前から渡そうと思っててさ」

少し照れたように笑ってディーノが私に見せたのは、

紺色の箱の中の黒地のクッションに埋め込まれている、銀色に輝くリングだった。

「!ディ、ノこれ…」

「…左手、貸して?」

それは私の左手の薬指にゆっくりと収まって、それを見たディーノはうん、似合ってる、と呟いたけれど、

私はそれどころじゃなくて、また視界が霞んできて、私今日一日で一生分の運を全部使いきってしまったのではないかなどと思った。

ディーノはもう一度私の頭を撫でると部下を呼んで予定を変更して早めに日本を発つと伝えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし、じゃぁ行くか

「…はい」

ディーノに手を引かれて廊下へ出ると、部下さん達が笑って迎えてくれた。

それで私はまた泣きそうになったけれど、どうせなら笑おうと思って我慢した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

惣忘草

あの約束から四年も遠回りしてしまいましたが、神様。私は今日からこの人と一緒に、生きてゆきます。

 

 

 

 

 

 

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タイトルは柴崎コウさんの曲から。この曲前から好きでした。

…最初のテーマは昭和の恋愛っぽいもの(時代は思いきり現代ですが)だったのにこんな話に…。   (070113)